【驚異的】史上最年少22歳!40号到達のヤクルト村上宗隆はこうして怪物になった!

【驚異的】史上最年少22歳!40号到達のヤクルト村上宗隆はこうして怪物になった!

というタイトルでお伝えしていこうと思います。

 

桁外れのパワーでホームランを量産する、新時代のアーティスト!

 

若くして日本を代表するバッターとなった新進気鋭の4番打者、東京ヤクルトスワローズの村上宗隆選手。

 

この村上宗隆選手が、2022年8月11日の広島カープ戦で、22歳にして史上最年少ホームラン40号を達成したことで、世間は驚きと歓喜で大盛り上がりです。

 

今回は、村上宗隆選手の生い立ちから、現在に至るまでを見ていき、いかにして怪物が生まれたのか?を調査していきたいと思います。

 

ヤクルト村上宗隆の生い立ち

村上宗隆選手は、2000年2月2日に熊本県熊本市で誕生。3人兄弟の次男として生まれました。

 

3歳の頃に、家に置いてあったプラスチックバットを振って遊んでいて、右利きでしたが、当時から無意識に左で打っていたそうです。

 

4歳になると野球をしていた兄(村上友幸さん)に連れられて、地元の少年野球チームの練習に参加するようになりました。

 

幼い村上宗隆選手は、キャッチボール中にボールを取り損ねて、鼻血を出したことがあり、練習に行くのが嫌になることもあったそうです。

 

今の日本を代表する敵なしの村上宗隆選手からは、想像ができない可愛らしエピソードですね。

 

村上選手のお父様(村上公弥さん)は、非常に厳しく「男なら一度やると決めたらやり通せ」と喝を入れられ、小学4年生になると学校の野球部に入部して本格的に野球に打ち込むようになったそうです。

 

九州男児という言葉が似合うお父様のお陰で、今の村上宗隆選手がいるんですね。

 

その時から、人一倍負けん気が強くなり、練習後には自身が納得いくまでバットを振り続けていたそうです。

 

どんなにポテンシャルがあっても、日々誰よりも練習や鍛錬を続けられる才能があるか?これが、プロの世界に入る必須事項なのかもしれませんね。

 

中学時代

 

村上宗隆選手は、中学に上がると全国レベルの硬式野球チームに入団したそうです。

 

入団当初は中学生の平均身長くらいで特に大きい体ではなかったものの、なんと中学生にして100メートル越えの打球を連発し、周囲の度肝を抜いていたそうです。

 

さすが驚異的ですね。

 

この時点で、地元熊本ではとんでもない選手として有名になっていきましたが、全国から大注目を集めたわけではなかったそうです。

 

というのも、当時村上宗隆選手よりも目立った同学年のもう一人の怪物「清宮幸太郎選手」がいたからです。

 

目覚めのキッカケは、【怪物】清宮幸太郎?

 

九州学院高校に進学した村上宗隆選手は、入学早々規格外のバッティングで周りとの差を見せつけ、なんと入学と同時に4番を任されるようになったそうです!

 

入学直後の5月、早速清宮幸太郎選手がいる早稲田実業との練習試合が行われました。

 

この試合まずは、西の怪物村上村上宗隆選手が、1年生らしからぬ豪快なホームランを放つと、直後に負けじと清宮幸太郎選手も、ホームランで応酬したそうです。

 

この時、村上宗隆選手は同学年にも自分より上の選手がいることを痛感し、自身を見つめ直し、今まで以上に厳しく野球と向き合うようになっていったそうです。

 

いわば、清宮幸太郎選手の存在が、今の村上宗隆選手の起爆剤となったのかもしれませんね。

 

そして1年夏、村上宗隆選手は4番として県大会を勝ち抜き、初の甲子園出場を果たします。

 

清宮幸太郎選手が率いる早稲田実業も、当然のように甲子園に出場しました。

 

ただ、同じ怪物1年生でも注目の的となったのは清宮幸太郎選手の方だったのです。

 

村上村上宗隆選手は、甲子園大会でも4番を務めましたが、1回戦で4打数無安打で初戦敗退。

 

たいして、清宮幸太郎選手は、大会2本のホームランを放つ活躍で世間を沸かせていました。

 

甲子園を後にした村上宗隆選手は、大会後監督から、「野球に関しての頭脳を磨いてほしい」ため、しんどいことは承知の上で捕手転向を告げられたそうです。

 

捕手転向後も4番としてチームを引っ張っていき、誰が見てもとんでもない驚異的なバッターと思わせるほどの怪物ぶりでした。

 

当時の監督からの捕手転向という提案がなければ、今の村上宗隆選手は、いなかったかもしれませんね。

 

悔しさをバネに成長を遂げる村上宗隆選手

その後、2年夏に県大会決勝戦まで進みますが、あと一歩のところで秀岳館高校に敗北し、2大会連続甲子園出場は叶いませんでした。

 

この試合後に、あまりにも悔しい思いをした村上宗隆選手は、試合後涙が止まらなかったそうです。

 

その悔しさをバネにひたすら練習に打ち込んでいくと、2年秋から今まで以上のペースでホームランを量産していき、いつしか「肥後のベーブルース」と呼ばれるようになったそうですね。

 

しかし、リベンジを誓って甲子園をかけた最後の夏。

 

惜しくも県大会決勝で、3対1で敗退。村上宗隆選手の高校生活は幕を閉じました。

 

村上宗隆選手の男気

 

高校最後の試合で負けてしまったときに、村上宗隆選手が試合後、後輩達に 向かって送った言葉が、かなりの男気発言なのです!

 

「負けたのは俺たち3年が情けなかったからや。勝って喜んでるアレが、お前たちの来年の姿や!!よう見とけ!!」

 

キャプテンらしい言葉で後輩たちを送り、涙を見せなかったそうです。

 

しかし、その後選手みんながロッカーに引き上げると、村上選手はただ一人ベンチに座り込んで、「もう一度甲子園に行きたかった」と号泣していたそうです。

 

後輩や仲間には、強く頼れる姿を見せて、泣いている姿を見せないなんて、男らしい九州男児の姿そのものですね。

 

東京ヤクルトスワローズへ入団

高校生活が悔しい幕切れとなりましたが、高校通算52本のホームランを放った怪物村上宗隆選手。

 

プロのスカウトから注目を集めていて、2017年ドラフト会議にて東京ヤクルトスワローズから1巡目で指名を受け念願のプロ入りを果たしました。

 

ここから村上宗隆選手の驚異的なプロ野球人生が始まるとは誰が想像できたでしょうか。

 

2017年

 

首脳陣の方針で、開幕から二軍生活が続くものの、高卒新人とは思えない活躍で、二軍ではありますが打率.288ホームラン17本70打点の成績を残しています。

 

2018年

 

9月に一軍昇格すると、昇格当日の広島戦でプロ初ホームランを記録しました。

 

自信がついた村上宗隆選手はさらに気持ちが高まっていき、このころからプロの誰よりも成績を残してやる」という強い覚悟を持つようになったそうです。

 

2019年

 

初の開幕1軍入りを勝ち取り、開幕戦に6番サードとして出場すると、5月にはすでに10本ものホームランを放ち怪物は健在でした。

 

そこからは4番を任される試合が増えていきました。

 

自身初のオールスターゲームにも選出された村上宗隆選手は、後半戦からもホームランを量産し、最終的には全143試合の出場で、ホームラン36本96打点と高卒2年目にして驚異的な成績を叩き出し、新人王を受賞しました!

 

一方で打率は.231で三振数は184個を記録した村上宗隆選手。

 

自身の弱点を克服すべく、オフでも練習を怠ることはなかったそうです。

 

2020年

開幕から5番サードとして出場すると、絶好調の活躍で6月には球団最年少記録となる20歳での月間MVPを獲得。

 

前年の課題を難なく克服した村上宗隆選手は、この年も全試合の出場で、打率.307、ホームラン28本86打点を記録し、自身初タイトルとなる最高出塁率を獲得。

 

オフには高卒4年目にして、早くも1億円プレーヤーの仲間入りを果たしました。

 

2021年

 

前年に続き開幕からチームの不動の4番として活躍し、夏場に開催された東京オリンピックでは日本の8番打者として活躍。

 

自らのホームランで、日本を金メダル獲得に導きました。

 

最終的には、打率.278ホームラン39本、112打点の成績でチームをリーグ優勝、日本一に導きました。

 

村上宗隆選手の史上最年少タイトルまとめ

 

・2020年自身初タイトルの最高出塁率を最年少で獲得。

 

・2021年9月19日史上最年少となる21歳7ヵ月で通算100本塁打に到達。

(1989年清原和博選手が記録した21歳9カ月での達成記録を、32年ぶりに塗り替える快挙)

 

・2021年ホームラン王&史上最年少リーグMVP獲得。

 

・2022年8月11日史上最年少40本塁打。

 

世間の声

 

まとめ

 

【驚異的】史上最年少22歳!40号到達のヤクルト村上宗隆はこうして怪物になった!

について、まとめてきました。

 

長い歴史を誇るプロ野球の最年少記録を、次々と塗り替えていき、誰もが不可能と思っていた王貞治の記録をも狙えるのではないかと思わせてくれる、夢のかたまりですね!

 

非常にわくわくします!!

 

怪物村上宗隆選手が、日本最強打者の道へ駆け上がる姿を楽しみに見守っていきましょう!

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